2019年12月23日月曜日

北川眞也さん(三重大学人文学部准教授)のインタビュー前編です。

時間が少し経ってしまいましたが、今年三月下旬にお話を伺った三重大学人文学部准教授で、人文地理学者でイタリアへの移民問題や、オペライズモやアウトノミアという「反労働」の系譜を研究されている北川眞也さんのインタビュー、前編部分をお送りします。
→こちらです。
https://www.kenjisugimoto.net/インタビュー-19/北川眞也さん-三重大学人文学部准教授-働かないで-すべてが欲しいーイタリア-反労働-という叙事詩1/

タイトルが『働かないで、すべてが欲しい』と、われら勤勉な(?)日本人としては刺激的なタイトルにしましたが、オペライズモ~アウトノミアというイタリアの反労働の流れを詳細に語っていただきました。

もともとは、昨年釜ヶ崎研究でいま最も前線で活躍している原口剛さんに紹介された際は、北川先生が邦訳された『ノー・フューチャー』というフランコベラルディ、通称ビフォさんのことも知らなくて、北川先生について調べているなかで、インタビューで自分が冒頭に述べたように、セックス・ピストルズの曲、『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』のサビの一節「ノー・フューチャー」の時代に入ったのがイタリアではアウトノミア運動の最昂揚期で、同時に弾圧された年でもあったと。また「最後の共産主義運動で、ポストフォーディズム時代が認識された」という理解に関してもなるほど鋭いのではないか、と思いましたし、「全世界のひきこもりたちよ、団結せよ」という講演形式の論文も中身が濃厚で、すぐこの、ビフォという人に関心を寄せ、このビフォ氏の本を翻訳される先生に会えるというので非常に楽しみでしたが、明るく、大いに語っていただき、話は7時間。ですから、今回もかなり濃密ですが、後編の続きもあります。

前にも書いたことがありますが、何者でもない自分のようなものにこれだけ詳しい議会外左翼の政治思想を語っていただくことはありがたいことです。

新自由主義思想のみが流通している現在に、カウンターたる社会思想、政治思想の語りはほとんど聞き馴染みのない、「反労働」の思想かもしれませんが、ある意味、「時代」「社会」に呑まれないで、それらを相対的に考え、想像するには、極端に対するもうひとつの極点を示さなければ、見えてこないことがあるのではないでしょうか。

それは、想像力を鍛えるために必要な事柄と思います。
また、別の想像力が必要な局面であると自分は考えています。
イタリアの反労働思想はミクロな諸運動にもかたちを変えながら生きている、実は歴史のある運動ですが、日本においては(特に今の日本においては)馴染みない思想であるゆえに、またぼくにとっても新しく耳にする部分も多い話でもあるだけに、これは大変貴重な話を聞けていると思います。

ところどころ、ことばになじみがない部分もあるかもしれませんが、じっくり読めば把握できると思いますし、次にひとつ専門的な本にチャレンジしてみようという際の入門にもなっていると思います。

多忙ななか、気さくにたくさんのことを教えてくれた北川先生に感謝するとともに、引き続き後編部分も楽しみにしておいてください。
どうかまずは、前編部分をじっくりと!

2019年12月5日木曜日

山下耕平さんのインタビューをお届けします。

お久しぶりになります。
けっこう久しぶりのインタビュー更新になります。

今回は元『不登校新聞』編集長で、NPO法人フォロの事務局長をされている山下耕平さんのインタビューをお届けします。→こちらです
今回のインタビューもまた、密度の濃い、たいへんよい話を伺えたと思います。

先に現不登校新聞編集長の石井志昴さんのインタビューを掲載していますが、石井さんの先輩格にあたり、現在は大阪でフリースクール、フリースペースを運営している山下さん。僕自身長く山下さんの文章を愛読し、尊敬してきた人でした。

自分のことを書くと、30代になる1990年代はまだかなりじたばたしていて、資格勉強したり、その延長で『不登校新聞』が刊行された98年頃に社会福祉士の資格を通信教育で取った自分には、「不登校」もその延長で考えていたかもしれませんし、当時、富田富士也さんというかたが先駆的に事例的に啓蒙していた「引きこもり」に自分を引き当てたりしていた時代でもあり、オウム事件に打撃を受け、同時にマインドコントロールから完全に抜けることが出来た季節が30代のことでした。そして98年頃から日本の経済環境も激変しました。僕の30代はようやくアルバイトなどを(幾たびか会社を変えながら)するようになりながら、文字通りじたばたしていた時代です。(考えてみれば、思春期も20代も)。

40代に入る2000年代は「ひきこもり」が社会問題となった時期。僕にはその問題はやや自分から遠くなりました。ひきこもりが「社会的ひきこもり」と言う形で医療と社会病理の問題に入っていき、スティグマ性が強まったせいもあったし、「バイトから抜け出し、普通に正社員になりたい!」と勘違いを始めたせいもあるでしょう(汗)。

ですから、今回山下さんと語り合った「不登校界隈で起きたさまざまな出来事」は正直いえば、最近知ったことばかりです。ただ、不登校とひきこもりが断絶があるかというとそんなこともないでしょう。つながりもあると思いますが、相互に違いがあると思う希望(?)が、言われる名づけの家族間相互にあったような気がします。

山下さんは前述したとおり自分にとって考えるよすがとなってけっこう長い人です。おそらく著書『迷子の時代を生き抜くために』を読む前から、山下さん自身のブログを先に読んで影響を受けてきたと思います。「シャープな文章を書く人だな」と思い、相手を鋭く見抜く厳しい人なんじゃないかと勝手に思い込んでおりました(笑)

昨年、インタビューで大阪の先生にお会いする際、当然、山下さんにお会いしたい、ということも浮かんだのですが、上述の思い込みと、まだ自分には準備が足りないんじゃないか、と考えて昨年は躊躇しました。
今年、大阪でまた別の先生と会う予約が取れた際、「厄介なオリンピックが来年度にはあるので、来年度は本州に行くのは秋以降まで無理だろう。勇気を持ってコンタクトを取ろう」と思ったのでした。

ところが、実際コンタクトを取る段階からインタビューまで、想像とは全然違っていて。とても温厚で優しい、誠実なかたでした。嬉しくも、大変失礼な勘違いで、山下さん、誤解してすみませんと、改めてここでお詫びする次第です(ー;)

さて、前置きばかりが長くなりまして…。大事な論点は事実、多岐に渡って語ってくださり、インタビュー後にも考えること、思うことがさまざま想起されるのですが、まずは何より不登校問題などに関心があるかたには是非じっくりとこの内容を読んでいただければ有り難いかぎりです。

「学校信仰が終わった」という認識は、良くも悪くも、学校という場所のアジール性、逆にはアサイラム性という社会の特別な枠組み、あるいは「保護膜」の役割がなくなりつつあるのではないかと。それは直近、大学の状況を教えてくれたインタビューに答えてくれた先生によると、大学生のボランティアが次のレールである社会人になる際の評価ポイントになっているという話を聞いて、改めて思うことでした。なかなか社会からの逃げ場がないのなら、乱暴をいえば不登校か、ひきこもるしかないのではないでしょうか。

山下さんが常に語る不登校「から」考えるとは、社会の前提を問うことで、それは山下さんが持つ「誠実さ」からどうしても呼び起こされる「疑問」というものを通して手にする真実への希求、またそれに類するもの。それを掴んだならば、けして手放さない心構えの強さではないか。
思った以上に柔らかな人柄の中、実はその山下さんの語りには、やはりそのような芯の強さがあるのではないかと感じたのでした。

山下さんのブログ 「迷子のままに」
bokan.blog.shinobi.jp/
NPO法人フォロ http://foro.jp/
なるにわ http://foro.jp/narnywa/
づら研 http://foro.jp/narnywa/dzuraken/

2019年8月28日水曜日

村澤和多里先生のインタビューを掲載しました。

また少し時間を経てしまいましたが、碩学の精神科医、中井久夫さんの評伝『中井久夫との対話ー生命、こころ、世界』を兄、村澤真保呂氏(龍谷大学教授)と共著された札幌学院大学の村澤和多里教授(臨床心理学)へのインタビューをお送りします。

私自身、村澤和多里先生との接点は長く、もともとはひきこもりNPOのための取材で2012年にお会いしたのが始まりです。当時もいまも珍しい、ひきこもりを主に研究している臨床心理の研究者で、角度も新鮮であり、自分が当時ひきこもりに思い描いていても身に染みることばを探っていたところ、「これだ!」という言葉を発してくれたのが村澤和多里先生でした。特に「こころと社会の間で捉える」という観点はまさにこれだ!と自分も思うことだったのです。

その後も同様、共著された『ポストモラトリアム時代の若者たち』の一年近い読書会や、ぼくがNPOのインタビュー取材をまとめた自費本作成後に一般書籍化に向けて編集者のかたを紹介してくれ、その後監修者としてインタビュー本を共著してくれたりなど、密度の濃い時間を過ごしたこともありました。

さまざまなお世話をしてくれ、また村澤さんとの対話はぼくにとっていつも刺激を受けられる嬉しいひと時の連続で、個人的には感謝に堪えない恩人という関係です。
今年の春からの大学での講座にももぐりで参加させていただいたり。(内容は日本の明治以後の近代化過程における自意識の問題、対人恐怖などの症状の起こりを日本の近代文学の黎明期などから紹介して深堀していくもの)
何よりうれしいのは講義が終わった後も、その日のテーマに即して引き続き感想や疑問を直接語り合えたりすることができたこと。現実の大学時代にこういう時間が欲しかったんだよなぁ、と改めて思ったものです。やはり頭で思うことと身体で反応すること、青年時代の遠慮や不安など、年齢要素があって人間というものは頭と身体にズレがあるものです。また、自分が結局どの程度のものかもわからないものです。でも、こうしてそういう得たいなぁというものが今でも得られたことは人生のだいご味かな、と思います。

それはもともと村澤先生が持っている知的な関心の高さが人を選ばずに広がっていると思われることも大きいでしょう。オープンな人柄は一貫して変わらないし、失礼ながら多少「言い過ぎ」な発言も許容してくれる心の広がりがあるかたです。
すごく感じるのは、村澤さんという人は何か「世界を掴みたい」というとても大きな夢をいつも見ているような印象がすごくする人で、ぼくもつい影響を受けてしまいます。

いやはや、自分自身の個人的経験を書き連ねてしまいましたが、今回は村澤先生御兄弟の父親と精神科医にして文人でもある中井久夫さんの親友関係を軸に、その親友の父の子としてみた血の繋がらない叔父のような関係としてある中井久夫氏の評伝について話を聴き、また、中井久夫氏の医師としての独特な臨床哲学を聞きました。

村澤先生自体に時間があまりなかったのと、そのため論点の整理を絞り切れず拡散しがちで、深堀りしきったか?と言われると赤面するところもあります。この辺りはかつて村澤先生自体がツイッターで非常に詳しい説明をされていますので、是非本を読んで村澤さんが整理して考える中井久夫やH.Sサリヴァンについての明確な短文記述がありますから、詳しく知りたくなった方はそちらのほうで確認をしてみてください。
ただ、このインタビューでも患者さんを外的に適応させることに主眼を置くのではなく、温かいまなざしで療養を進めていく姿勢や、ジャズに模して共にリズムとしてセッションに参加して音律をその人が調律が崩れていくのを戻していく治療的姿勢など。そのような表現から学ぶことができるのではないでしょうか。

最後に改めてまた村澤先生について。何にでも知的な好奇心を持つ村澤先生。当方もそういう姿を見ているのが楽しくなるのですが、共著本の締め切りで校正の言葉を一つ一つ確認する明日までの締め切りの深夜近いファミレスで。夜も11時近く、校正候補の言葉の一つにこだわりだして、スマホで確認される先生。ジョークでなく、真剣に調べ始めた先生には僕もさすがに(もう時間が無いんですよ!)とつい「イラッ」としたこともありましたが(笑)。思い返せば楽しい思い出で、村澤さんの「いまを熱中できる」性格にうらやましさも感じた次第です。いや、初めての真面目な仕事で、真剣にもなったし、楽しい語り合いもあった良い思い出でですね。

今後もぜひつながっていければなと思う次第です。

PS.
『中井久夫との対話』書評もインタビュー中に挿入しました。評者は村澤先生の大学の同級、岩波書店編集者の渡部朝香さんです。

2019年6月3日月曜日

原口剛さんのインタビュー後編を掲載しました

お待たせしました。
原口剛さんのインタビュー後編をお送りします。
後半はまずジェントリフィケーションを話題としましたが、改めてジェントリフィケーションとは?というところからおさらいしましょうか。

ジェントリフィケーション(英語: gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象である。日本語では、高級化、中産階級化、階級浄化などの訳語があてられる。これにより、貧困地域の家賃・地価の相場が上がり、それまで暮らしていた人々が、立ち退きなどによって住居を失ったり、それまでの地域コミュニティが失われたりすることが問題となる。(ウィキペデアより) 

いまでは日雇い労働者の街、釜ヶ崎がある新今宮駅界隈もジェントリフィケーション化されつつあるようです。ひとつひとつ、原口さんが重みを込めて語る言葉を噛み締めてほしいと願うし、ぼくも僕自身そうしていかねばならないと思います。

札幌もJR駅の東側の再開発が凄まじく、新千歳駅から札幌駅に着くあたりのアナウンスが入る頃の風景には仰天させられるほどのタワービルの乱立がみられます。主に10年後の新幹線延伸をあてにしたマンションの乱立だと思いますが、駅周辺再開発に伴うとなりの新しい苗穂駅というところは、ショッピングモールを出て入駅するとエスカレーター完備の見事に完備された駅ですが、近場に職場や利便の悪さゆえにガラガラ状態。ここで費用をかかりすぎると見込むなら、新千歳空港駅から苗穂駅に止まるようにするしかないでしょう。
それにしても、昔の苗穂駅周辺を知る者として、実に無駄な再開発だと思います。
政治が金儲けとつるんで、生活と向き合わないととんでもないことになり、現にそうなっているからこそ、このところの人々の経済格差のみならず、地域格差、インフラ格差が露骨な露呈をしめしていると思います。

ジェントリフィケーションが美化された形ではそういった人工インフラによって報復され、そして破壊され、ぼくらはちりぢりバラバラになるかもしれない…。

いまや必至に住む土地にへばりつく人たちが、おおむねの中流から下降に向かう人たちがともに叩き合う時代になってきているように思います。事件が起きれば弱者が弱者を叩く、強者が弱者を叩くのみならず。
本当は生活する人たちが日々の連続性を守るための闘いをしなければならないのでしょう。
闘う相手はあなたやぼくの鏡じゃなく、それは大きくて、見えにくい、構造という怪物。無駄なあがきか?確かに勝ち目はないかもしれませんが、それを考える甲斐はあるんじゃないかと思うのです
そんなこんなで原口さんの深い洞察ある言葉にどうか是非目を通してほしいと思います。

ロングなインタビューですが、前後編併せて読んでいただければ望外な喜びです。

2019年3月7日木曜日

原口剛さんのインタビュー前編を掲載しました。

釜ヶ崎をフィールドワークしている人文地理学者、原口剛さんのインタビューを掲載しました。こちら。→

内容はご覧いただく通り、原口さんのヒューマニティを繊細に感受する力と、説明能力の高さからその説得力は比類ないものとして受け止めていただけると思います。今後この前編のみならず、後編もあります。まず日雇い労働者の街、大阪市釜ヶ崎の寄せ場、ドヤ街のありようは何となく基本的な理解を前提にした感じでしたので、インタビューで直接には釜ヶ崎の半世紀について特段な形では聞いておりませんので、このブログで簡単に振り返りお伝えしたいと思います。

現在の「釜ヶ崎」(公的地名ではない。それは東京のいわゆる「山谷」も同じ)は大阪市でも南側環状線内の主要な駅であるJR新今宮駅西口から出ると信号を渡ればすぐです。信号を渡った駅の向かいには釜ヶ崎を象徴する「あいりん労働福祉センター」のゴツイ建物が目に入ります。ここが日雇い労働者の人たちと、日雇い求人の業者が相対して労働需給の決まる場所です。その労働市場の機能が働くのは早朝の4時〜5時台のことで、あえて言葉悪く言えば「魚市場」などに似た、「市場」だといえば「なるほど」と思うような建物です。(現在、耐震構造の問題で建物の改築の動きもあるそうです)。その建物を労働者たちの寄せ場の中心として、周辺に簡易宿泊所、いわゆる「ドヤ」街(宿をひっくり返した言葉)が立ち並びます。簡易宿泊所は「アパート」や「ホテル」と名がついているのが普通ですが、実際のところ現在の釜ヶ崎は日雇い労働者の簡易宿泊所の機能のみならず、元日雇い労働者だった人たちの高齢化に伴い、定住化した生活保護受給者や年金生活者の人たちが増え、いわゆる「共同住宅」化も進み、それゆえに実態として「アパート」が増えているともいえそうです。午後の早めの時間も歩いている人はそれほど多くはなく、事実、歩いている人も高齢の人が多い印象でした。

元々は労働者や各種の雑業をやって生活している人たちが仮住まいしていたのが「木賃宿」というもので、それは現在の釜ヶ崎ではなく、「長町」といわれる「日本橋」とつながる場所でした。それが明治三十六年に現在の「新世界」と天王寺公園を中心に第五回内国勧業博覧会を行うため、一帯を浄化するために長町を締め出し、長町に住む労働者たちを現在の新今宮(当時の今宮村)方面に移動させ、そこが釜ヶ崎と言われる場所となるわけです。端折って続けると、その後は太平洋戦争で大阪市も大空襲、新今宮近辺も焼け野原となりました。その後の復興の過程での1950年代はその地は典型的なスラムとなったのですが、表通りにドヤが立ち並び始め、家族持ちの人々がさまざまな小売り商売で生活を始めました。高度成長期に入る日本社会は職を求めて地方の農家の後継者になれない人、閉山炭鉱労働者などが流入。大阪港の港湾労働者や建設業、製造業に就くようになります。その中で大きなインパクトとして1961年に労働者による第一次暴動が発生しました。これを契機に行政が大きく動く。一つは釜ヶ崎に住む家族のいる世帯を対象に地域外への移住対策として「あいりん寮」「今池生活館」といった施設に1年半入居させ、その後は地域外に公営住宅をあっせんする政策をとり、釜ヶ崎は単身男性労働者の街へと変貌していきます。加えて釜ヶ崎を釜ヶ崎らしいインパクトのある街へとしていくのが1970年の国策としての大阪万国博覧会でした。この国家的事業をするための労働力として範囲が狭い釜ヶ崎地域に大量の若い労働力が集められます。ドヤもビル型のものが増え始め、居住空間一畳個室のような眠れるだけの「マンモスドヤ」も登場。暴動も頻繁となり1963年から10年間で第三次暴動~第二十一次暴動が起き、暴動の街、釜ヶ崎のイメージが膨らみますし、劣悪居住ゆえに大型火災事故なども起きます。また、労働の形態も1960年代に中心であった港湾労働は港湾の近代化に伴って減少し、代わりに万博やのちの80年代バブルまでに至る公共事業など(関西空港建設、関西学研都市建設、阪神大震災の復旧事業など)で日雇い労働者の産業も建設労働者へと中心が変化し、釜ヶ崎は一層活況を呈します。

そのバブルが崩壊した90年代半ば以降は一挙に釜ヶ崎の労働者の仕事も減り、90年代は野宿者が増え、その野宿の人たちは釜ヶ崎一帯からより外側の天王寺公園や長居公園、大阪城公園などにブルーシートでテント村を作っていくという現象も起きたといえるのではないでしょうか。

その釜ヶ崎での日雇い労働者の人たちも単に受動的な存在ではなく、暴動という表現だけのみならず、例えば60年代では港湾労働者組合を結成するなどして雇用保険や健康保険の日雇い労働者手帳を獲得したり、労働現場の実態を訴えて闘うなど(平井正治さんという人などがその代表的なひとり)、70年代には暴力団関係の手配師(労働仲介者)を排除する闘いをした釜共闘(理論家としては船本州治など)の活動など、労働運動の担い手となった人たちがいたわけです。

あまりにもざっくりとしたこの説明では詳しい人たちに怒られます。
まずはぜひ原口剛さんの『叫びの都市ー寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』や、『釜ヶ崎のススメ』(共に洛北出版。特に入門としては後者は良いかもしれません)を読んで正しい理解をしてください。

インタビュー後半は都市浄化政策のひとつである「ジェントリフィケーション」について主にお聞きしています。札幌もいつのまにか所謂「タワーマンション」が立ち並び始め、都市再開発の波が押し寄せてきている印象です。この現象は何を意味するのか。続けて原口さんのお話、乞うご期待を。

最後に、釜ヶ崎の半世紀とはどういうものであったのか。原口剛さんの講演映像をアップします。非常に分かりやすく説明をしてくれていますので、こちらもぜひご覧いただけると幸いです。


無縁声声ー日本資本主義残酷史 平井正治

黙って野たれ死ぬな 船本州治

釜ヶ崎語彙集1972-1973 寺島珠雄







2019年1月1日火曜日

本年もよろしくお願いします。

あけましておめでとうございます。
今年で2010年代もおしまいですね。

昨年は5人のかたにお話を伺い、4人のかたのインタビューを掲載しました(越年を含む)。
いまは大阪の日雇い労働者の街、釜ヶ崎をフィールドとし、都市再開発とそれにともなう都市の上からの浄化という資本主義的な問題を研究されている人文地理学者、原口剛さんのお話前編部分の校正終了待ちです。越年ではありますが、このインタビュー原稿、前編部分ですが、早く多くの皆さんにお届けしたい素晴らしいものです。
どれもが大事な自分のインタビュー記事ですが、特に出色なものではないかと思います。
語りそのものですでに完成度が高いのですけれども、校正に手を入れてくれることでより説得力がます原稿になるでしょう。私も楽しみです。

本年も理想を言えば6人くらいのかたにお話を伺いたいのですが、いかんせん同居で見守っている母親の認知症の進行が早く、自由がなかなか効かないところなきにしもあらずで。
そこに関しては何とか本人や介護保険で援助してくれる医療福祉関係者の協力をいただいて、どこへでもお邪魔できるのであれば、と思っています。

自分のインタビューはわかりやすさよりも、密度や深さを重視していく、結局はそれが個性なのだろうと思い極めたところもありますので、無学ながら来年はよりいっそうディープで詳細な内容のもので攻めていきたいと思っています。
どうか本年もこのサイトを、ご愛顧のほど、よろしくお願いします🙇