2016年3月22日火曜日

勝山実さんのインタビューを掲載しました。

ひきこもり名人、勝山実さんのインタビューをホームページに掲載しました。
まあ、インタビューといいますか、前提はそうなんですが、「名人」は極めて聞き上手でもありまして。結局、勝山さんに甘えて自分ばかりが過剰にしゃべっていた気がします。
そもそも「インタビュー」という枠組みの抑制とかあんまり考えないで話をしていたもんで。。。お恥ずかしい。
前半の導入部と、後半の僕の体験部分に見事なツッコミが入っておりますが、もう大爆笑でしたね。
体験の部分は不登校新聞でずいぶん書いてくれたので、本の中でツボにはまっていたんだろうと想像はしていましたが、横浜に行って最初にインタビューを試みた際も「そこか!!」と。私自身盲点であった名人のツッコミでした。その際ももう、爆笑、爆笑で。

書評もそうなんですが、こういう愛あるツッコミは一般論にはできませんが、個人的には「実はそうなんじゃない?」ということなんですけども、こういうアクションこそが有難い。これぞ当事者愛なんだと思う。
けっこうこういう形でつっこんでくれることで「ブレイクスルー」するというと、おおげさだけど、カタルシスは間違いなくありますね。
でも、これって難しいのは、普通はよほど親密な関係にならないとできない表現なんですよ。言えるまでには時間がかかるし、言っても大丈夫、と自然に思える関係が作られてからでないと。
そこはやはり名人の技であり、私にそういうツボをつく技をかましてくれたことがとても有難いことでありました。

勝山さんの書くものや、今回のインタビューの後半の就労についての話や、社会に関する話もそうですが、極めて本質的な観点をストレートに語ってくれるだけに、言葉を聞いたり見たりして不安に思う人もあるかと思います。
でも、ぼくはそう思わない。その辺は考えを共有しているという前提はあるのだけど、それ以上に何というかなぁ。いわく言いがたい、勝山さんには一種の品位があるように思えてならない。それは受け答えの「ぶれなさ」とかに感じられて、ぶれなさに関しては勝山さんの受け答えを読んでも理解してもらえるかと思えます。あとは「やさしさ」。「ひきこもり性善説」は本当でしょう。当事者へのまなざしの暖かさは非常に感じます。これはおそらく神奈川の活動家の人たちの共通項なんじゃないだろうか。

カンニングへのツッコミは全くの想定外でしたが(笑)、勝山さんには一貫した勝山流倫理規範みたいなものが備わっているんだな、と改めて思いました。それも品位品格を感じたところ。
ある種の言行一致を目指している純粋なところがあって、何かね。自分の下衆ぶりを改めて思いましたね。勝山さんって、禅僧のような感じかな?(またことばがうわすべりしてますが)。

あと、今回一番感銘を受けたインタビューのやりとり。勝山さんは校正の中でかなり落としましたが、僕は大人の姿勢のありようを感じ、粛然とした部分でしたので、起して送ったものをここに再度掲載します。「一歩前に出て、声を張って、言い切るしかない」の部分です。


(私が『現実くん』と『大丈夫くん』の間で揺れて、喋りが右往左往する、という語りを受けて)

杉本:やはりそこらへんは勝山さんはね。一端、言い切っちゃうという。これは物がわかっている人も褒める部分だと思うんですけれども。

勝山:仕方ないんですよ。やはりねえ。聞いてる人は寝ちゃうしねえ。

杉本:(苦笑)。

勝山:(笑)全然聴かなくなっちゃうから(笑)。一歩前に出て、声を張って、言い切るしかないんですよ。もう「一本道」なんですよ。もうね。

杉本:そこなんだなあ。

勝山:もう、思っていることハッキリ言うと。選びようがないですからね。

杉本:そこなんだよね、うん。やはり「大人になる」というのはねえ。

勝山:いやもう、そこしかないんですよ。もう選択肢がないんですよ。あるように見えて。

ここに勝山さんの淡々とした覚悟があるように思えました。(おおげさにいえば)
この境地にはなかなか行き着かないけれども。。。目標値ではありますよね。
 

2016年3月12日土曜日

ひきこもる心のケア読書会第二回inかめの会

 昨日石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」さまが主催してくれた『ひきこもる心のケア』の第二回目の読書会を開いていただいた。今回は監修者の村澤和多里さんが出席してくれ、村澤さんの視点から多くを語っていただいたので、その角度から私としての感想を考えてみたい。

 二回目の話題は第三部、「発達障害とひきこもり」から話題をはじめた。今回の収穫は村澤さんより発達障がいの中で分類名が種々変遷してきた「自閉症スペクトラム」圏の歴史的推移を説明していただいたこと。現状において、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」など、知的水準が平均あるいは高い自閉症圏の人たちを専門家がどう見てきて、いま「自閉症スペクトラム」で用語が統一されたことを教えていただいた。

 私の個人的な感想を言えば、専門家が種々の言葉を使い意味する対象の人びとを語る用語が統一されたことは良かったと思うけれど、いわゆるアメリカの精神疾患診断「DSM」を輸入して統一見解とするのは文化環境が違う中で果たして丸まる受容するのはどうなのだろうか?という素人としての疑問もある。それは私自身、その場で伝えたつもりだけど、上手く説明できたかは怪しい。疑問を疑問として問うならば、疑問の説明もしっかりすべきであったが、場を意識する癖が出てしまい、上手く行かなかった(以下、そういう悪癖の反省も含めて、あの場で語れなかったこともこのブログで縷々のべると思う)。

 もうひとつの大きな話題は「ひきこもり」が現代社会の中でことばが持つネガティブな要因も含めて、「現在」の中でどう位置づけられるか、あるいは位置づけられてしまったその要因は何だったのか、という話。

 この件に関しては、社会経済状況の変化との連関を中心軸に考える村澤さんの話題提起が新しい。「ひきこもる心のケア」第四部「社会的排除とひきこもり」と連関する部分なのだが、「ひきこもり」がネガティヴに捉えられ、同時にひきこもりが数として社会問題化され、あるいは問題としてあぶりだされたのは2000年代(正確には1998年の山一證券、北海道拓殖銀行破綻あたり)から進行し始めた新自由主義経済の加速度的なドライブとの関連が大きい推論が語られた。当初は斉藤環氏の「家族関係論」「家族療法論」がひきこもりを考える際に主位置を占めていたが、実は社会構造の大きな変化の中で起きている現象だ、という捉え方に導いていく話になっている。これは第九章の阿部幸弘先生(心のリカバリーセンター長)とつながり、バブル後の経済成長に貢献する労働者の枠組み自体が痩せ細っている中で起きている現象と言い換えても良いような状況として捉えられる。
 読書会の場での話しあいでは、私自身が強引にそこに持っていったきらいもあるけれど、そこから「労働者になれない若者の居場所を持てない状況」「若者サポートがない中で外に出て行く場所が見つからない状況」を私自身は心の中の意識の比重に重心を置いて話したつもり。これもうまく話題にできたか、説明ベタのせいもあっていささか心苦しいところがあるけれども。

 実はこの問題を仔細に検討するにはもっと良い本がある。検討や検証をするに値する本がある。本書の巻末にお勧め本として紹介されている『ポストモラトリアム時代の若者たち』という本だ。(村澤さんいわくの、「青い本」』
 


 村澤さんも共著されたこの本の序章で以下の部分を引用したい。
(前略)若者たちがひきこもりやニートと呼ばれる状態に陥っているのは、彼らが社会に適応できなった結果ではなく、それどころか反対に彼らが社会に適応しすぎた結果であり、いわば過剰適応の一形態を示していることが多いということである。つまり、彼らがひきこもりになった原因とみなされている彼らの内面の問題は、やはり社会全体の問題に深く由来している。したがって、それは心理的領域と社会的領域が重なり合っている複合的な領域で生じている問題であって、たんなる個人心理学の議論に回収することもできなければ、社会・経済の問題へと還元することもできないものである。むしろ、それは心と社会のつなぎめで起こっている問題なのである。(序・失われた時を求めて)
昨日の話の中で村澤さんが強調されていたのは、むしろ社会・経済の問題が大きかったように思われる。国の財政状態の危機から、近未来に来ると思われる地球規模の食料危機まで。だから日本が今後「農業をどう考えるか」ということもある、とラストの方で村澤さんは仰られた。

 先に横浜で開いて下った「新ひきこもりについて考える会」においてもほぼ似たような話が話題にのぼった。若いメンバーのかたは「欲望のダウンサイジング」を考え、ほかのメンバーのかたは「1980年代初頭の生産水準に戻せばよい。別に江戸時代に戻れ、という話ではない」という意見があった。
 村澤さんもその話題には首肯しつつ、「国はその方針を採りたくないでしょうねえ」 と仰る。それはまさにそうだろう。これは政治的に先鋭的に対立するであろう綱引きだし、社会意識の変革がありえるか、の大問題なので。

 なかなか親の会のメンバーのかたがたの前でこのような話を煮詰めていくのは大変なことであるし、いま此れ、この事が必至の課題にはなりにくい。

 でも私自身は、「言行不一致」な人間の癖に、ひとりでいるときはこんな考えが浮かんでは「どうしたものだろう?」と考えてしまうことが多い。社会的な問題、マクロな問題は頭がクラクラするし、自分自身が「ならば農業をやる」とはならない。これに加えて老親を抱えて、いまの年金制度が維持されれば10年後の自分の未来について、財政赤字の国で、アベノミクス(本当?)の国で、日銀がモラルハザードの国で、合理化していくミクロな企業、労働の国で。自分の居場所はどこにあるのだろう??と日々思う。そしておうおうにして、自分自身煮詰まって「これは僕らのモラルの問題なのだろうか?」と自問自答してしまう。

 でも、憂鬱になっても仕方がないと思っている。こういう話は村澤さんに出会う前から自分のカウンセラーとよく話し合っていたことだし、そして結局「俺はいまだにその答えを自分に出せていない」という、究極的にはそのことだ、という認識があるから。

 でも多くの人にとってどうなのか?といえば憂鬱で深刻な話題、ということになるかもしれない。
 だから時間の物差しは私たちひきこもり当事者は二つ持った方がいいと思っている。
 ひとつは社会のものさし。社会がいまどこに在り、どこに向かっているのかという観察。もうひとつは自分の物差し。他人の思惑と関係なく、自分(たち)は誰と関係を持ち、誰と関係を持たないか。信頼する人、信頼するものは当面何なのか。自分の力量でネガティヴ要因をポジティヴ要因に反転できるものがあるのか?ということを意識していく試み。つまりは自分の時間。

 「社会の時間」と「自分のための時間」(後者は比ゆ的表現で、つまりは「ふつう」と思わされている大多数の人たちの考えは良し悪しは自分で判断するために、一端脇に置くということ)
 この二つの時間を常に意識しながら生活をするということ・・・。

 孤独かもしれない。だれかと普通に話し合えない話題かもしれない。でも、どこかで誰かとこういう話題が出来るはず(現に僕はできる人を見つけたー少数であっても。でもこれもなかなか大変。判断を誤ると別の政治や宗教に絡めとられる危険もあり)。
 いずれにせよ、そこに希望を見る。

 読書会の村澤さんの視点の角度から感想を、と冒頭書きながら、やはり大きく逸脱している気がするが、結局村澤さんなり、ほかのこういう文脈の話ができる人であれど、私の頭の中はどんどんこの文章のような浮遊の仕方をするので、自分の意識の流れに逆らわずに前日の様子の主観的なこれをもってのレポートとさせていただいた。

 ご存知のとおり、昨日は5年目の「311」であった。あの日のことは遠隔地であったこともあり、自分の軽薄さを考え直す一分間の午後2時46分の黙祷時間であった。僕は本当にあの津波の怖ろしさ、われわれがどれだけ頑張っても太刀打ちできない自然の圧倒的なものをしみじみ実感したのは実は3ヵ月後のNHK番組での振り返りであった。スマートフォンなどでとられた普通の人たちの提供映像の圧倒的なリアル、ということもいま考えると全く新しいことだと思う。ここにもメディア独占の最終局面の立会いにあるような現代なのだ、という気がする。新しい「公共メディア」とは何か、ということも今後みんなが考えていかねばならないのだろうな。そんなことも思う。

2016年3月2日水曜日

『ひきこもる心のケア』読書会第二回目in石狩かめの会

インタビュー編書『ひきこもる心のケア-ひきこもり経験者が聞く10のインタビュー』の読書会第二回目を行います。主催は石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」。
日時は3月11日午後1時から4時まで。会場は石狩総合保険福祉センター・りんくる3F303号室です。

くわしい情報は→こちらで

読書会といいますと、何とはなし、「小難しくならないか」と考えがちかと思います。実際、自分自身もそんな懸念がなくはありませんでした。でも、そこはさすが「かめの会」関係者の人たち。和やかに話題は盛り上がり、二時間があっという間に過ぎていきました。そのため、今回は一時間会場を長くとっていただきました。ありがたや、ありがたや。

さて、二回目は監修者の村澤和多里札幌学院大学准教授(臨床心理学科長)にも参加していただきます。
思いのたけを語っていただきましょう!
また、友人でとまこまい若者サポートステーションの職員で、「苫小牧フリースクール検討委員会」でも活動している藤井昌樹さんも参加してくださることになっています。
いっそう座も盛り上がるかな、と思います。

7日まで参加を受付けているようですので、興味のあるかたはぜひ足を運んでくださいね!
お待ちしております。

2016年3月1日火曜日

若原先生寄贈:『ヒトはなぜ争うのか』

 
 
 昨年インタビューにお応えいただいた若原正己さんの待望の新刊が出て、寄贈いただきました。先月の上旬に送っていただいたにもかかわらず諸般の都合で紹介が遅れて申し訳なかったです。ありがとうございました。
 
 当初は生物学からみて「人はどこから来て、どこへ向かうのか」というようなタイトルの本になると思っていたので、一瞬、本のタイトルに意外な感じを持ちましたが、若原先生の現代社会に対する危機意識が反映したため、このようなタイトルになったのだと思い返し、少し厳粛な面持ちになりました。
 
 
 「遺伝子」や「生物学」というテーマ。私自身、ほんの以前は実に縁遠い世界でした。一般の人たちより全然知らないことばっかりだったと思います。これもインタビューで個人教授していただいたおかげでして、この本もほとんど苦しまずに読み通すことができました。前半は生物の成り立ちの話から入りますから、インタビューで教授していただいた事柄がそのまま本の理解に役立ちました。そのような次第で、ほんのちょっと前の自分には想像もつかないことだったな、ありがたいことだな、というのが正直な感慨です。
 やはり直接に著者とお会いして、直接図示などもしてもらいつつ説明をいただいたり、僕の稚拙な問いにも応えていただいたりした、そういうやりとりの中の中における先生の語り口、表情、言葉の印象その他が記憶の中で再現されるおかげだろうなとと思っており、いかに直接的な出会いの中で教わることが、聞き手にダイレクトに伝わるものかと。再認識される思いです。その意味でも人からいただくギフトが多い昨今だなあとしみじみ実感しています。
 
 もちろん、大変読みやすい構成になっていますし、人文学社会学にもつながっていますから、人文諸科学を専門に学びたい高校生への生物学(自然科学)の参考書としても最良かと思います。

 
 分かりやすい記述の流れの中、白眉はやはり「人はなぜ争うのか」を取り上げた第七章。若原先生の文章には疑問、仮説、反証、自己弁証の跡が見えます。これはインタビューの限られたやりとりの中では再現不能な部分でしょう。言葉にしにくい思案の跡が見え、特に大事な章になっています。
 
 前書き、最終章,あとがきにもありますが、人間の「争う」遺伝子の側面と、「平和」を希求する理念の双方を持つ相反した性格。
 それをヒトは(映画)「ランボー」と、「マザー・テレサ」を兼ね揃えていると表現されています。誠に見事な表現だと思います。「暴力」と「倫理」の両面をヒトは持っている。それをアンドロジェンとオキシトシンというふたつのホルモンから仮説を立てる。これが第七章の最も面白い部分です。
 
 あと、個人的には第一章の「全宇宙の物質の階層性」という整理から始まる部分が面白かった。物質世界から見た宇宙、生物、ヒトの社会という整理の仕方はともするといろいろ混沌とする頭にはひとつの基準としてそこに立ち戻りながら考えると分かりやすかったです。
 
 生物学の立場から見る人文社会の世界。ぜひ多くの人に垣間見ていただきたいと思います。
 
 若原先生のインタビュー(個人授業)はこちらから読めます。ぜひインタビューを参照にしつつ、この本も手にとって戴ければ幸いです。