2018年6月24日日曜日

札幌のホームレス支援ボランティア団体代表の山内太郎さんのインタビューをお届けします。

 また大変ロングなものですが、久しぶりに新しいインタビューを更新します。こちら。
今回は、本年1月末に行った、主に北海道大学の学生さん有志と、労働問題や福祉問題の研究をされている大学の先生が札幌での路上生活者の支援を行なっている『労働と福祉を考える会』略して『労福会』で代表を務める札幌国際大学准教授の山内太郎先生のお話をお届けします。

 私も素朴で率直な疑問というか、問題意識として、大変に寒く厳しいこの札幌の地で家を持たずに路上で冬を越すということ。それを可能にしてしまう個人というもののある種独特のパワーと、そのような人たちを不可視化してしまおうとする都会の匿名的な人間集団としてのわれわれというあいだの社会的関係を改めて考えてみたいと思いなおした次第です

 かといって、そのメカニズムの端の端、その一端でも知りたいと思ってボランティアをするほどの真剣さもない。そこに主に北海道大学の学生さんのまれな部類かもしれませんが、良い意味で好奇心に動かされ、ボランティアとしてホームレスの人たちと関わって行くその意識のありようは、山内先生のお話を聞いていて了解するところ多くありました。

 しかし、とはいえ。実態的にもホームレスで越冬する人も減っているとはいえ、家を失ったまま長期に渡る人たちと社会側にいる我々が再びフラットにコミュニケーション持ちはじめるきっかけ足りえる生活保護制度という大事なツール。その前に横たわる大きな二つの壁。まずは特に政治家などが中心にネットやマスメディアを通じてプロパガンダをする生活保護バッシング(濫救だ、生保が国家財政を圧迫している等のプロパガンダ)、そしてもうひとつの壁である生活保護の「保護捕捉性の原理」に基づく扶養照会(家族・親族を探して連絡し、扶養の可能性を求める法に基づく実務)が、脱路上の足かせになっているということ。このことにもっと敏感な感性を持ったほうが良いと強く思いました。それは失われている人間の基本的な尊厳性をまた新たに、二次的にいっそう傷つけることになるのだと考えざるを得ません。

 路上に出てしまう人は先生の話を聴く中でも思ったのですが、たしかに客観的にも、社会的に良くないことをしてしまったね、という事実のもとにそうなったかもしれないし、逆にそんなことでそこまで自分を追い詰めることになってしまうのだろうか、という例もあるかもしれない。それは乱暴にいえば、我々は自分の主観のある種の囚われびとだからなのかもしれない。だからわたしたちは「これで問題ないはずだ」という役割による相互承認がある中で確認をできているおかげでいわゆる自分の生活を成り立たしめているのかもしれない。そしてそれらの集積が過去を参照しながら未来へ向き合う社会の現在という現実を構成してるのかもしれない。これは私のあくまで個人的な仮説ですが。

 だから、主観というものに捉われるのが人間の現実のサガだし、捉われの記憶の大きさがときによってある種の人を社会の周縁へと自ら導かせてしまうのだ、という風にも認識していく。そういう可能性というものとして視る、というのも思考の可能性としてあっていいのではないかと思います。その要因に至るまで、我々は実は多くのみずからの安全を支える関係の網目に生きてこれた。しかしその網目は過去からのさまざまな経緯のありようで持ち得ないこともあり得るのだと認識すること。ですから、現象だけを見て、今後関係の網目を再構築するため努力をする人たちに、再び関係を切る言説を浴びせる権利を持つ者はどこにもいないと思うのです。たまたま能力に違いはあれど、所詮は同じ人間という生きものなのですから。

 事実の問題として、寒風にさらされて生きる文字通りのホームレスの人は減って来ているのかもしれません。でも、いま生じてきている新しい課題は、実は家があっても家の中に何らかの脆弱さや、ときにクライシスに近い状態で緊急相談が生じつつことがあると。これは「見える化」のものだったホームレスというものが、今度は逆に不可視化されつつあるものとして再浮上しているのかもしれない。山内先生がおっしゃるようにハウスがあっても内実はホームレスと呼んでいいんじゃないかという提議は重要ではないかと思い、今回のインタビューのメインタイトルに持ってくることにいたしました。