2019年3月7日木曜日

原口剛さんのインタビュー前編を掲載しました。

釜ヶ崎をフィールドワークしている人文地理学者、原口剛さんのインタビューを掲載しました。こちら。→

内容はご覧いただく通り、原口さんのヒューマニティを繊細に感受する力と、説明能力の高さからその説得力は比類ないものとして受け止めていただけると思います。今後この前編のみならず、後編もあります。まず日雇い労働者の街、大阪市釜ヶ崎の寄せ場、ドヤ街のありようは何となく基本的な理解を前提にした感じでしたので、インタビューで直接には釜ヶ崎の半世紀について特段な形では聞いておりませんので、このブログで簡単に振り返りお伝えしたいと思います。

現在の「釜ヶ崎」(公的地名ではない。それは東京のいわゆる「山谷」も同じ)は大阪市でも南側環状線内の主要な駅であるJR新今宮駅西口から出ると信号を渡ればすぐです。信号を渡った駅の向かいには釜ヶ崎を象徴する「あいりん労働福祉センター」のゴツイ建物が目に入ります。ここが日雇い労働者の人たちと、日雇い求人の業者が相対して労働需給の決まる場所です。その労働市場の機能が働くのは早朝の4時〜5時台のことで、あえて言葉悪く言えば「魚市場」などに似た、「市場」だといえば「なるほど」と思うような建物です。(現在、耐震構造の問題で建物の改築の動きもあるそうです)。その建物を労働者たちの寄せ場の中心として、周辺に簡易宿泊所、いわゆる「ドヤ」街(宿をひっくり返した言葉)が立ち並びます。簡易宿泊所は「アパート」や「ホテル」と名がついているのが普通ですが、実際のところ現在の釜ヶ崎は日雇い労働者の簡易宿泊所の機能のみならず、元日雇い労働者だった人たちの高齢化に伴い、定住化した生活保護受給者や年金生活者の人たちが増え、いわゆる「共同住宅」化も進み、それゆえに実態として「アパート」が増えているともいえそうです。午後の早めの時間も歩いている人はそれほど多くはなく、事実、歩いている人も高齢の人が多い印象でした。

元々は労働者や各種の雑業をやって生活している人たちが仮住まいしていたのが「木賃宿」というもので、それは現在の釜ヶ崎ではなく、「長町」といわれる「日本橋」とつながる場所でした。それが明治三十六年に現在の「新世界」と天王寺公園を中心に第五回内国勧業博覧会を行うため、一帯を浄化するために長町を締め出し、長町に住む労働者たちを現在の新今宮(当時の今宮村)方面に移動させ、そこが釜ヶ崎と言われる場所となるわけです。端折って続けると、その後は太平洋戦争で大阪市も大空襲、新今宮近辺も焼け野原となりました。その後の復興の過程での1950年代はその地は典型的なスラムとなったのですが、表通りにドヤが立ち並び始め、家族持ちの人々がさまざまな小売り商売で生活を始めました。高度成長期に入る日本社会は職を求めて地方の農家の後継者になれない人、閉山炭鉱労働者などが流入。大阪港の港湾労働者や建設業、製造業に就くようになります。その中で大きなインパクトとして1961年に労働者による第一次暴動が発生しました。これを契機に行政が大きく動く。一つは釜ヶ崎に住む家族のいる世帯を対象に地域外への移住対策として「あいりん寮」「今池生活館」といった施設に1年半入居させ、その後は地域外に公営住宅をあっせんする政策をとり、釜ヶ崎は単身男性労働者の街へと変貌していきます。加えて釜ヶ崎を釜ヶ崎らしいインパクトのある街へとしていくのが1970年の国策としての大阪万国博覧会でした。この国家的事業をするための労働力として範囲が狭い釜ヶ崎地域に大量の若い労働力が集められます。ドヤもビル型のものが増え始め、居住空間一畳個室のような眠れるだけの「マンモスドヤ」も登場。暴動も頻繁となり1963年から10年間で第三次暴動~第二十一次暴動が起き、暴動の街、釜ヶ崎のイメージが膨らみますし、劣悪居住ゆえに大型火災事故なども起きます。また、労働の形態も1960年代に中心であった港湾労働は港湾の近代化に伴って減少し、代わりに万博やのちの80年代バブルまでに至る公共事業など(関西空港建設、関西学研都市建設、阪神大震災の復旧事業など)で日雇い労働者の産業も建設労働者へと中心が変化し、釜ヶ崎は一層活況を呈します。

そのバブルが崩壊した90年代半ば以降は一挙に釜ヶ崎の労働者の仕事も減り、90年代は野宿者が増え、その野宿の人たちは釜ヶ崎一帯からより外側の天王寺公園や長居公園、大阪城公園などにブルーシートでテント村を作っていくという現象も起きたといえるのではないでしょうか。

その釜ヶ崎での日雇い労働者の人たちも単に受動的な存在ではなく、暴動という表現だけのみならず、例えば60年代では港湾労働者組合を結成するなどして雇用保険や健康保険の日雇い労働者手帳を獲得したり、労働現場の実態を訴えて闘うなど(平井正治さんという人などがその代表的なひとり)、70年代には暴力団関係の手配師(労働仲介者)を排除する闘いをした釜共闘(理論家としては船本州治など)の活動など、労働運動の担い手となった人たちがいたわけです。

あまりにもざっくりとしたこの説明では詳しい人たちに怒られます。
まずはぜひ原口剛さんの『叫びの都市ー寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』や、『釜ヶ崎のススメ』(共に洛北出版。特に入門としては後者は良いかもしれません)を読んで正しい理解をしてください。

インタビュー後半は都市浄化政策のひとつである「ジェントリフィケーション」について主にお聞きしています。札幌もいつのまにか所謂「タワーマンション」が立ち並び始め、都市再開発の波が押し寄せてきている印象です。この現象は何を意味するのか。続けて原口さんのお話、乞うご期待を。

最後に、釜ヶ崎の半世紀とはどういうものであったのか。原口剛さんの講演映像をアップします。非常に分かりやすく説明をしてくれていますので、こちらもぜひご覧いただけると幸いです。


無縁声声ー日本資本主義残酷史 平井正治

黙って野たれ死ぬな 船本州治

釜ヶ崎語彙集1972-1973 寺島珠雄