2018年11月5日月曜日

立正大学社会福祉学部教授、金子充先生のインタビューを掲載しました。


前回掲載のインタビューから少し時間が経ってしまいましたが、立正大学社会福祉学部教授、金子充先生のお話を掲載します。こちらです。
金子先生を知る経緯となったのは、もともとは本年1月31日にお会いした札幌国際大学の短大で教鞭をとりつつ、「労働と福祉を考える会」というボランティア組織の代表をされている山内太郎さんにお会いする際の予習として購入した、『入門貧困論』に惹きこまれたためです。魅了されたんですね。

著作を読了した後、横浜で開催している『新ひきこもりについて考える会・読書会』というものに私はSkypeで参加させてもらっているのですが、Skype管理をしてくれ、世話人をされているひきこもり研究の社会学者、関水徹平さん。その関水さんと同じ大学、同じ学部ということで金子先生をご存知か問い合わせたところ、何と研究室が隣だということで。あいだに関水さんにも入ってもらい、金子先生のインタビューが実現できたわけです。

本書は「貧困とは何か」という定義について約400ページのほぼ半分に渡り、貧困に関するレッテルやラベリング、負のイメージの通念を翻し、「貧困」は個人の努力とは別の構造的問題であるという視点で書かれています。
内容に関してはぜひ手に取っていただきたいところです。

インタビューに関しては本書に即した内容はあまり聞いてはいませんが、いま問題として浮上化している奨学金という学生さんに圧し掛かる負債について若者にかかる負担を強く思わざるを得ませんでした。金子先生がいみじくも言われるとおり、「債務奴隷化」によって、政治や社会の積極的関与を困難にしている状況なんだろうなと。

社会への関与の難しさはひきこもりという観点で考える場合に先駆的に強く意識されてきたことですが、こと、ここにきて普通の若者にも同じような精神的負担がじわじわと迫っているような感じがします。
金子先生の本にある極めて説得的な貧困論と公的扶助論は、冷静さの中に熱さがあり、それはそのようなかたちで若者に負わされている負担に対する静かな憤りがあると思うのは考えすぎでしょうか。

僕が思うに、
子どもが成長しておとなから学習して学び、社会と自分の関係を意識したとき、社会環境を背景として個人としての「アイデンティティ」が浮かび上がる。
いま、その「アイデンティティ」が、事実上社会適応や「労働への包摂」という形で「排除から包摂」で適応されて良かった、となる。それが本当に良いことか?という疑問を改めて感じるところです。

それにしても、自分が教えている学部の特色かもと語りつつも、学部生たちが卒業後すぐに経済的自立をし、親の援助もしているという金子先生の話には驚きです。
社会の非正規化や圧迫化の影響かもしれませんが、親御さん自身が経済的に苦しい、あるいは精神的な失調にある。それゆえに子どもが親御さんの面倒もみる。けなげだというしかありませんが、やはりそこにも社会の歪みあるのではないか…と思うのは考えすぎでしょうか。いずれにしても、奨学金に加え、親の面倒も見るとなると、日本も昭和20年代~40年代に逆戻りしたのか、と驚きを禁じえません。

ややネガティブな事象を書き綴りましたが、思うに金子先生の展望にはベーシックインカムの成り立つような社会にある思いますが、過程において種々の「社会手当」の拡充をまずは求めるということがあると思います。いま、生活保護も受給額も減額され、バッシングも跋扈していますが、それは日本社会そのものの首を絞める行為なんだとわれわれもそろそろ深刻に気がついたほうが良いのではないでしょうか。

偉そうなことを書き連ねていますが、今回のインタビュー、インタビューアーがしゃべりすぎ(汗)。聞き返すたび、「自分ごときが生意気に」という感じで心が痛みますが、どうしようもなくほとばしってしまったところもありで。どうかご勘如をお願いいたします。