2016年3月12日土曜日

ひきこもる心のケア読書会第二回inかめの会

 昨日石狩・不登校と教育を考える会「かめの会」さまが主催してくれた『ひきこもる心のケア』の第二回目の読書会を開いていただいた。今回は監修者の村澤和多里さんが出席してくれ、村澤さんの視点から多くを語っていただいたので、その角度から私としての感想を考えてみたい。

 二回目の話題は第三部、「発達障害とひきこもり」から話題をはじめた。今回の収穫は村澤さんより発達障がいの中で分類名が種々変遷してきた「自閉症スペクトラム」圏の歴史的推移を説明していただいたこと。現状において、「高機能自閉症」や「アスペルガー症候群」など、知的水準が平均あるいは高い自閉症圏の人たちを専門家がどう見てきて、いま「自閉症スペクトラム」で用語が統一されたことを教えていただいた。

 私の個人的な感想を言えば、専門家が種々の言葉を使い意味する対象の人びとを語る用語が統一されたことは良かったと思うけれど、いわゆるアメリカの精神疾患診断「DSM」を輸入して統一見解とするのは文化環境が違う中で果たして丸まる受容するのはどうなのだろうか?という素人としての疑問もある。それは私自身、その場で伝えたつもりだけど、上手く説明できたかは怪しい。疑問を疑問として問うならば、疑問の説明もしっかりすべきであったが、場を意識する癖が出てしまい、上手く行かなかった(以下、そういう悪癖の反省も含めて、あの場で語れなかったこともこのブログで縷々のべると思う)。

 もうひとつの大きな話題は「ひきこもり」が現代社会の中でことばが持つネガティブな要因も含めて、「現在」の中でどう位置づけられるか、あるいは位置づけられてしまったその要因は何だったのか、という話。

 この件に関しては、社会経済状況の変化との連関を中心軸に考える村澤さんの話題提起が新しい。「ひきこもる心のケア」第四部「社会的排除とひきこもり」と連関する部分なのだが、「ひきこもり」がネガティヴに捉えられ、同時にひきこもりが数として社会問題化され、あるいは問題としてあぶりだされたのは2000年代(正確には1998年の山一證券、北海道拓殖銀行破綻あたり)から進行し始めた新自由主義経済の加速度的なドライブとの関連が大きい推論が語られた。当初は斉藤環氏の「家族関係論」「家族療法論」がひきこもりを考える際に主位置を占めていたが、実は社会構造の大きな変化の中で起きている現象だ、という捉え方に導いていく話になっている。これは第九章の阿部幸弘先生(心のリカバリーセンター長)とつながり、バブル後の経済成長に貢献する労働者の枠組み自体が痩せ細っている中で起きている現象と言い換えても良いような状況として捉えられる。
 読書会の場での話しあいでは、私自身が強引にそこに持っていったきらいもあるけれど、そこから「労働者になれない若者の居場所を持てない状況」「若者サポートがない中で外に出て行く場所が見つからない状況」を私自身は心の中の意識の比重に重心を置いて話したつもり。これもうまく話題にできたか、説明ベタのせいもあっていささか心苦しいところがあるけれども。

 実はこの問題を仔細に検討するにはもっと良い本がある。検討や検証をするに値する本がある。本書の巻末にお勧め本として紹介されている『ポストモラトリアム時代の若者たち』という本だ。(村澤さんいわくの、「青い本」』
 


 村澤さんも共著されたこの本の序章で以下の部分を引用したい。
(前略)若者たちがひきこもりやニートと呼ばれる状態に陥っているのは、彼らが社会に適応できなった結果ではなく、それどころか反対に彼らが社会に適応しすぎた結果であり、いわば過剰適応の一形態を示していることが多いということである。つまり、彼らがひきこもりになった原因とみなされている彼らの内面の問題は、やはり社会全体の問題に深く由来している。したがって、それは心理的領域と社会的領域が重なり合っている複合的な領域で生じている問題であって、たんなる個人心理学の議論に回収することもできなければ、社会・経済の問題へと還元することもできないものである。むしろ、それは心と社会のつなぎめで起こっている問題なのである。(序・失われた時を求めて)
昨日の話の中で村澤さんが強調されていたのは、むしろ社会・経済の問題が大きかったように思われる。国の財政状態の危機から、近未来に来ると思われる地球規模の食料危機まで。だから日本が今後「農業をどう考えるか」ということもある、とラストの方で村澤さんは仰られた。

 先に横浜で開いて下った「新ひきこもりについて考える会」においてもほぼ似たような話が話題にのぼった。若いメンバーのかたは「欲望のダウンサイジング」を考え、ほかのメンバーのかたは「1980年代初頭の生産水準に戻せばよい。別に江戸時代に戻れ、という話ではない」という意見があった。
 村澤さんもその話題には首肯しつつ、「国はその方針を採りたくないでしょうねえ」 と仰る。それはまさにそうだろう。これは政治的に先鋭的に対立するであろう綱引きだし、社会意識の変革がありえるか、の大問題なので。

 なかなか親の会のメンバーのかたがたの前でこのような話を煮詰めていくのは大変なことであるし、いま此れ、この事が必至の課題にはなりにくい。

 でも私自身は、「言行不一致」な人間の癖に、ひとりでいるときはこんな考えが浮かんでは「どうしたものだろう?」と考えてしまうことが多い。社会的な問題、マクロな問題は頭がクラクラするし、自分自身が「ならば農業をやる」とはならない。これに加えて老親を抱えて、いまの年金制度が維持されれば10年後の自分の未来について、財政赤字の国で、アベノミクス(本当?)の国で、日銀がモラルハザードの国で、合理化していくミクロな企業、労働の国で。自分の居場所はどこにあるのだろう??と日々思う。そしておうおうにして、自分自身煮詰まって「これは僕らのモラルの問題なのだろうか?」と自問自答してしまう。

 でも、憂鬱になっても仕方がないと思っている。こういう話は村澤さんに出会う前から自分のカウンセラーとよく話し合っていたことだし、そして結局「俺はいまだにその答えを自分に出せていない」という、究極的にはそのことだ、という認識があるから。

 でも多くの人にとってどうなのか?といえば憂鬱で深刻な話題、ということになるかもしれない。
 だから時間の物差しは私たちひきこもり当事者は二つ持った方がいいと思っている。
 ひとつは社会のものさし。社会がいまどこに在り、どこに向かっているのかという観察。もうひとつは自分の物差し。他人の思惑と関係なく、自分(たち)は誰と関係を持ち、誰と関係を持たないか。信頼する人、信頼するものは当面何なのか。自分の力量でネガティヴ要因をポジティヴ要因に反転できるものがあるのか?ということを意識していく試み。つまりは自分の時間。

 「社会の時間」と「自分のための時間」(後者は比ゆ的表現で、つまりは「ふつう」と思わされている大多数の人たちの考えは良し悪しは自分で判断するために、一端脇に置くということ)
 この二つの時間を常に意識しながら生活をするということ・・・。

 孤独かもしれない。だれかと普通に話し合えない話題かもしれない。でも、どこかで誰かとこういう話題が出来るはず(現に僕はできる人を見つけたー少数であっても。でもこれもなかなか大変。判断を誤ると別の政治や宗教に絡めとられる危険もあり)。
 いずれにせよ、そこに希望を見る。

 読書会の村澤さんの視点の角度から感想を、と冒頭書きながら、やはり大きく逸脱している気がするが、結局村澤さんなり、ほかのこういう文脈の話ができる人であれど、私の頭の中はどんどんこの文章のような浮遊の仕方をするので、自分の意識の流れに逆らわずに前日の様子の主観的なこれをもってのレポートとさせていただいた。

 ご存知のとおり、昨日は5年目の「311」であった。あの日のことは遠隔地であったこともあり、自分の軽薄さを考え直す一分間の午後2時46分の黙祷時間であった。僕は本当にあの津波の怖ろしさ、われわれがどれだけ頑張っても太刀打ちできない自然の圧倒的なものをしみじみ実感したのは実は3ヵ月後のNHK番組での振り返りであった。スマートフォンなどでとられた普通の人たちの提供映像の圧倒的なリアル、ということもいま考えると全く新しいことだと思う。ここにもメディア独占の最終局面の立会いにあるような現代なのだ、という気がする。新しい「公共メディア」とは何か、ということも今後みんなが考えていかねばならないのだろうな。そんなことも思う。

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