2019年8月28日水曜日

村澤和多里先生のインタビューを掲載しました。

また少し時間を経てしまいましたが、碩学の精神科医、中井久夫さんの評伝『中井久夫との対話ー生命、こころ、世界』を兄、村澤真保呂氏(龍谷大学教授)と共著された札幌学院大学の村澤和多里教授(臨床心理学)へのインタビューをお送りします。

私自身、村澤和多里先生との接点は長く、もともとはひきこもりNPOのための取材で2012年にお会いしたのが始まりです。当時もいまも珍しい、ひきこもりを主に研究している臨床心理の研究者で、角度も新鮮であり、自分が当時ひきこもりに思い描いていても身に染みることばを探っていたところ、「これだ!」という言葉を発してくれたのが村澤和多里先生でした。特に「こころと社会の間で捉える」という観点はまさにこれだ!と自分も思うことだったのです。

その後も同様、共著された『ポストモラトリアム時代の若者たち』の一年近い読書会や、ぼくがNPOのインタビュー取材をまとめた自費本作成後に一般書籍化に向けて編集者のかたを紹介してくれ、その後監修者としてインタビュー本を共著してくれたりなど、密度の濃い時間を過ごしたこともありました。

さまざまなお世話をしてくれ、また村澤さんとの対話はぼくにとっていつも刺激を受けられる嬉しいひと時の連続で、個人的には感謝に堪えない恩人という関係です。
今年の春からの大学での講座にももぐりで参加させていただいたり。(内容は日本の明治以後の近代化過程における自意識の問題、対人恐怖などの症状の起こりを日本の近代文学の黎明期などから紹介して深堀していくもの)
何よりうれしいのは講義が終わった後も、その日のテーマに即して引き続き感想や疑問を直接語り合えたりすることができたこと。現実の大学時代にこういう時間が欲しかったんだよなぁ、と改めて思ったものです。やはり頭で思うことと身体で反応すること、青年時代の遠慮や不安など、年齢要素があって人間というものは頭と身体にズレがあるものです。また、自分が結局どの程度のものかもわからないものです。でも、こうしてそういう得たいなぁというものが今でも得られたことは人生のだいご味かな、と思います。

それはもともと村澤先生が持っている知的な関心の高さが人を選ばずに広がっていると思われることも大きいでしょう。オープンな人柄は一貫して変わらないし、失礼ながら多少「言い過ぎ」な発言も許容してくれる心の広がりがあるかたです。
すごく感じるのは、村澤さんという人は何か「世界を掴みたい」というとても大きな夢をいつも見ているような印象がすごくする人で、ぼくもつい影響を受けてしまいます。

いやはや、自分自身の個人的経験を書き連ねてしまいましたが、今回は村澤先生御兄弟の父親と精神科医にして文人でもある中井久夫さんの親友関係を軸に、その親友の父の子としてみた血の繋がらない叔父のような関係としてある中井久夫氏の評伝について話を聴き、また、中井久夫氏の医師としての独特な臨床哲学を聞きました。

村澤先生自体に時間があまりなかったのと、そのため論点の整理を絞り切れず拡散しがちで、深堀りしきったか?と言われると赤面するところもあります。この辺りはかつて村澤先生自体がツイッターで非常に詳しい説明をされていますので、是非本を読んで村澤さんが整理して考える中井久夫やH.Sサリヴァンについての明確な短文記述がありますから、詳しく知りたくなった方はそちらのほうで確認をしてみてください。
ただ、このインタビューでも患者さんを外的に適応させることに主眼を置くのではなく、温かいまなざしで療養を進めていく姿勢や、ジャズに模して共にリズムとしてセッションに参加して音律をその人が調律が崩れていくのを戻していく治療的姿勢など。そのような表現から学ぶことができるのではないでしょうか。

最後に改めてまた村澤先生について。何にでも知的な好奇心を持つ村澤先生。当方もそういう姿を見ているのが楽しくなるのですが、共著本の締め切りで校正の言葉を一つ一つ確認する明日までの締め切りの深夜近いファミレスで。夜も11時近く、校正候補の言葉の一つにこだわりだして、スマホで確認される先生。ジョークでなく、真剣に調べ始めた先生には僕もさすがに(もう時間が無いんですよ!)とつい「イラッ」としたこともありましたが(笑)。思い返せば楽しい思い出で、村澤さんの「いまを熱中できる」性格にうらやましさも感じた次第です。いや、初めての真面目な仕事で、真剣にもなったし、楽しい語り合いもあった良い思い出でですね。

今後もぜひつながっていければなと思う次第です。

PS.
『中井久夫との対話』書評もインタビュー中に挿入しました。評者は村澤先生の大学の同級、岩波書店編集者の渡部朝香さんです。