2017年12月3日日曜日

栗原康さんインタビュー後編掲載しました。

大変お待たせしました。栗原康さんのインタビューの後編をお届けします。
こちら。
前編掲載から、一月半あまりも経ってしまい、待ち望んでいた読者の方々には申し訳ないことです。
もし可能であるならば、前編から通して後編まで読んでいただければうれしく思います。
いまも気鋭のアナキズム研究政治学者である栗原さんの、これは今はまだ全仕事の「前期の時代」だと思いますが、いちおう最初期の研究書『G8サミット体制とは何か』以外の単著作品全体を軸に、概観のできた数少ないインタビューになっていると思います。

このインタビューを機会に、例えば、「伊藤野枝伝」を読み、作者が気になっているんだけれども、ほかの作品も手に取るかどうか迷っている読者のかたがいらっしゃって、今回のやりとりを機会に、他の作品も手にとってみようと思う方がひとりでもおられたならば、聞き手としては望外な喜びです。
また、希望として、元からの栗原作品のファンの方はぜひこのインタビューを拡散していただければ心からうれしいです。

聞き手の素人ぶり、時折痛ましい「自白」(というのがふさわしい)が読み手にはザラザラしたやや不快な障りを感じてしまうかもしれませんが、それでも全体を通すとさまざまに現代社会に関する問題や、現代が手に入れたものと引き換えに失ってしまったものに思いをいたすきっかけに、そしてさまざまな想像力や想念(良い意味での)へのよすがになるのではないかと思います。

特に『死してなお踊れー一遍上人伝」に関する話は4月中旬ですから、すでに八ヶ月近く前に聞いた話ですが、当時としてはまだネットのインタビューなどでも掲載されていなかった内容で、そのぶん割と早期のものであったという点が小さな自負です。

その一遍上人伝に関する踊りについて。ライオット、ストライキの前駆的なものとして一般民衆にあったものとしての踊り。あるいは社会的有用性のために必要とされる「型」に対して「圧倒的に間違える」「自由」な身体の動き。この辺は実に深い意味を持つと思っていて、いま個人的に渡辺京二さんというかたの作品を私は傾斜して読んでいるのですが、おそらくこの後編インタビューの一遍上人の踊りとそれに付随した栗原さんの語りを説得力あらしめるものとして渡辺京二さんの著書を捉えているとも言える気がします。

このあたりは今とうてい簡単には連関や連想についてうまくは書けない部分ですので、ぜひ項を改めて、渡辺京二さんの作品、特に『近代の呪い』(平凡社新書)などから学んだと思えることを今回のインタビューともからめてお伝えできればと思います。

改めて栗原さんのインタビュー、前後編の全部を読み通すのは労力かと思いますが、現代が忘れ、次代に拾われてしかるべきことがらの内容が語られていると思っていますからおすすめしたいところです。実際にどこに引っかかるかは読み手によってさまざま違いがあると思います。ぼくも一番最初に話を伺ったときと、何度も編集や校正をする過程の中でいま考えるポイントは変化しています。

ロングインタビューが自分のサイトの要ですが、時間をかけて舐めるように言葉や字との対面を再開することによって、それこそ行為や言葉にはしずらい何かを少しずつ見つけているような気がしているところです。

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